(202)ドイツメディアから考える今3・・『無数の雄ヒヨコ殺処分(ZDF動画)』が問いかけるもの 前篇

上に載せた2014年4月22日のZDFフロンタール21で放映された『朝食のためのガス処分・・孵化した無数の雄ヒヨコ殺処分』は衝撃的であり、CO2での気絶後の苦しまない殺処分にもかかわらず、ホロコーストガス室をオーバーラップせずにはいられなかった。
日本ではさらに残酷であり、選別され段ボールに詰め込まれた雄ヒヨコは山積みされ、長時間に渡る苦痛死への配慮もなく、廃棄物として処理されていると聞く。
確かに自然界に生きるものは食物連鎖のなかで生きており、人間は家畜や魚類などの食用の恩恵なくしては生きられないことも道理である。
しかしそれだからといって、人間以外の生きものに何をしてもよいということにはならない。
それにもかかわらず経済利益が最優先される現在の新自由主義社会では、日本においても1995年の動物生命の尊重と苦痛を与えないことを求める「動物処分方法に関する指針」制定も免罪符となり、何でもありが容認されている。
さらに食物産業がアグリビジネスとして巨大化したアメリカでは、動物愛護団体の激しい抗議にもかかわらず、残酷な殺処分が動画で見るようにオートメーション化されている。
こうした残忍なやり方も新自由主義が支配する社会では、安価に大量に食糧を提供するという貢献で、メディアからも問題視されていないのが現状である。
しかしそのようなやり方は、本質的に人類に貢献しているのだろうか。

動物福祉と保護、そして動物生体実験の問題に生涯を捧げた野上ふさ子さんの2012年の最後の著書『いのちに共感する生き方:人も自然も動物も』では、「人間と動物は、いわば運命共同体だ。動物に対して行われることは、必ず人間にも行われる。だからこそ、動物を守る活動は、人間自身を守る活動でもあると私は信じている。(306ページ)」と強調していた。

そして私自身も人類の歴史、そして今シリアやアフリカで起きている残忍な行為、さらにはウクライナで起きているナショナリズムの高まりを見るとき、動物に対して行われる残忍な行為は、必ず人間にも行われると確信せずにはいられない。
その根底には人間だけがよければ、さらには自分たちだけが、究極的には自分だけがよければよいという考えが潜み、それを利用した支配の構図が見えてくる。

後編では規制なき新自由主義を克服しようとしているドイツでは、無数の雄ヒヨコ殺処分をどのように解決しようとしているかを見ると同時に、雄ヒヨコ殺処分に配慮なき新自由主義社会が、今突き進む最前線を考えて見たい。