(263)ドイツの未来シナリオから見た現在の世界危機・・第一回私の脳裏に封印されていたバングラディシュ

40年間脳裏に閉じ込めてあったバングラディシュが蘇えったのは、上のZDFフィルムを見た時に始まった。
すなわち科学データに基づく2032年のドイツのケルン市では洪水による水没と戦っているが、既に現在のバングラディシュでは気候変動の進行で雨季が激化し、洪水難民が増え続けており、さらに海面上昇で各地で海に呑み込まれている。
そのような映像は私の脳裏に封印してあったものを蘇えらせ、再び訪れさせた。
私が40年前にバングラディシュを訪れたのは、最貧国バングラディシュの子供たちと日本の子供たちの絵の交換交流に賛同したからであった。
しかし訪れて見ると、現地小学校の生徒は絵を描く授業がないだけでなく、机もなかった。
それ故私自身が紙やクレンヨンを調達し、現地ダッカのボランティア団体の協力で教師の指導の下に絵を描いてもらったが、塗り絵のようなものばかりであった。
それをボランティア団体の人たちに話すと、彼ら自らの子供たちに絵を描かせてくれた。
どの絵も洗練され素晴らしく、その理由を聞かずにはいられなかった。
理由はボランティア団体の人たちの子弟は小学校などには行かず、海外で教育を受けた何人もの一流家庭教師による個人英才教育を受け、英国の一流大学進学がお決まりコースであったからだ。
そして彼らが私に頼むことはボランティアの交流ではなく、ビジネスの仲介であり、不快感を感ぜずにはいられなかった。
しかしそれが、私の脳裏に封印させた主因ではなかった。
当時バングラディシュは、1971年にバングラディシュを独立に導いたムジブル・ラフマン大統領が75年に軍のクーデターで一族全員が殺害されていたことから、政情は恐ろしく不安定であった。
しかも私を招いた仏教徒は少数先住民であり、バングラディシュの第二の都市チッタゴン郊外の丘陵地に仏教徒を含めモンゴロイド系の約13民族60万人が代々暮らして来ていた。
しかし71年の独立後自治権はく奪により虐げられ、仏教徒は財政支援を日本及び世界に支援を訴えることで生き延びようとしたのに対して、他の民族は民族統一戦線に結集しゲリラ戦で戦った。
もちろんその結果は最初から明白であり、圧倒的力の軍隊に鎮圧され、多くの人たちが虐殺された。
そのように虐殺された人たちの子弟がダッカ大学で密かに学んでおり、私の滞在中案内をしてくれた同年輩の仏教徒僧(現在は高僧)を通して、私に接触を求めてきた。
私はダッカ大学の寄宿舎に深夜に出かけて話を聞いたが、民族統一戦線の衝撃的話は、当時の私には聞くだけが精一杯であり、彼らの日本、そして世界に不当な弾圧を訴えて欲しいという要望を自己保身から受け入れることができなかった。
それこそが、脳裏に封印された主因である。

そして40年後のバングラディシュは、数字の上では一人あたりの国民総所得は100ドルから500ドルへと増加しているが、リキシャや荷運搬人など炎天下で汗水流して働く多くの人たちの生活は益々苦しくなっているように見えた。
ダッカのメイン通りは自動車、ベビータクシー(三輪自動車)、リキシャ、バスで絶えず渋滞し、バングラディシュの混沌さを象徴していた(40年前は自動車は僅かであり、通りはリキシャが流れていた)。
しかもリキシャに支払う料金は1キロ10タカ(日本円で13円)が相場であり、現在ではワーキングプアーの人たちも少なくなく、早朝のシャッターを下ろした店の前でリキシャの若者やオジサンたちが地べたに勇壮な寝顔で眠っていた。


*まだ19日に帰国したばかりであり1週間書くことを延ばそうとも思ったが、結局書いている。
行く前は最近遺伝的な糖尿兆候が見られ、頻尿気味なことから体調を心配したが、絶えず渋滞でダッカからチッタゴンのバスは行きも帰りも10時間を超えたににも関わらず、全く問題なかっただけでなく、すこぶる元気であった。
それも毎日自給目的の農作業で、日々3時間草取りに徹していたおかげである。
頻尿も、毎日食するヒヨコ豆のダールカーレ、ルティ、チャイがすこぶる美味で薬効があり(店では30タカほどであるが、空港レストランでは600タカとなり日本料金と変わりない)、35度を超える茹だるような暑さの中で、日本では最早退化した汗腺から汗を噴出させてくれたから全く問題なかったのであろう。