(269)世界危機第七回・バングラ再訪2(支援者の殺されるわけ)・不正が生み出す危機3(ガラス張り、公正、責任が求められなくてはならない)

異国の旅では、絶えず話しかけられ、絶えず言葉を捲くし立てているにもかかわらず恐ろしく閉ざされており、現在のような弱肉強食の世界では弱者の救済を掲げているにもかかわらず、ともすれば事件へと巻き込まれない。
9月14日も、一つ間違えば事件に巻き込まれていただろう。
列車が何らかの事情で取りやめになることはバングラディシュではよくあることで、機転を利かして動かざるを得ない。
その場合状況や情報について殆どイノセントであることから、人に頼ざるを得ない。
第二回フィルムは、チッタゴン行列車の母親を見送りに来たヒンドゥーの若者に、近くのバス発車場に親切に案内され、バスの発車を待っているところから始まる。
ここバングラディシュは圧倒的なモスリム社会であり、1950年代の革命で共存していたヒンドゥーの多くの人々はインドへ避難し、ヒンドゥーの若者はマイノリティーであり、就職口も開かれていない(有力者だけの恐るべき縁故社会であり、大部分の貧しいモスリム若者にも開かれていない点では同じである)。
そうしたバングラディシュでも世界メディア支配、広告支配の潮流に乗って、スマートフォンが非常に安く、あるいはWi−Fiスポットで無料使用ができることから爆発的に普及している(携帯使用台数は1億1000万を超え、75%の普及率)。
それ故大部分の困窮する殆どの若者も利用でき、彼らの虐げられている不当さ、理不尽さの情報が絶えず飛び交い、怒りへの結び付を深めている。
おそらくこのヒンドゥーの若者も英語のできるリーダに連絡し、私との会話の後である指示が出され、突然私を彼の村に招待したのであろう。
もし招待を受けていれば、最悪の場合拉致もあり得たように思われる。
またチッタゴンではムービー装着をしている油断もあって(また目立っこともあり、格好の拉致ターゲットのジャーナリストと間違えられ易い)、リキシャのモスリム若者にホテルとは反対の郊外へと連れて行かれ、彼の村の仲間に取り囲まれた時は恐怖感さえ感じた。
私は絶えず公正さ(輪タクの120タカコールから彼は100タカを約束したにも関わらず、300タカを要求する不当性)、そして私はリキシャが好きであり、不当に虐げられている人々を支援するために訪れているのだと言い続けたことが幸いした。
既に書いたことだが、私のバングラ訪問少し前に、途上国支援のイタリア人男性(51歳)が殺害され、訪問後の10月3日に農業関係で支援していた私より少し若い日本人(66歳)が殺害された。
彼は政府開発援助ODAのいまや実質的実施機関である国際協力機構JICAのスタッフであったことが(シニアボランティアと思われる)、理不尽にもいきなり襲撃射殺された理由であろう(取材記事では、村人から敬われていたことが明記されていた)。

不正が生み出す危機3(ガラス張り、公正、責任が求められなくてはならない)
何故政府開発援助が攻撃目標となるかは、開発援助にドイツの官僚として10年現場で携わったブリギッテ・エルラーが告発し、ウィリー・ブラント(第4代連邦首相1969〜74)が論争で概ね認めるように、支援が搾取的関係に責任のある権力側エリートに与えられ、搾取的関係維持を継続させているからである。
また先進国で大きな問題(公害や地球温暖化)を引き起こしているテクノロジーを無批判に途上国に輸出拡大することで、問題を更に肥大化させ、大部分の途上国の人々の暮らしを益々困窮させているからだ。
そのような現実が、人間の命を権力を奪うための道具にすることも厭わないイスラム国のような過激派集団のプロパガンダに引き寄せていくのである。
それを克服するためには、世界はあらゆる情報を機密にせずガラス張りに開き、公正さを求めて行かなくてはならない。
同時に責任を問う仕組みの構築が不可欠であり、それなくして力による安全確保は火に油を注ぐことになるだろう。

ドイツの戦後はナチズムの徹底した反省から、ドイツ社会をガラス張りに開き、絶えず公正さを追求し、責任が求められる仕組みを構築したからこそ、たとえ産業界が競争原理最優先の新自由主義に呑み込まれても、その仕組みが不死鳥のように復活するといえよう。
ドイツの戦後にそのような仕組みの構築できた理由は、アドルノ等が『啓蒙の弁証法』で、理性による進歩(啓蒙)が権力の前では自然や人間を支配するための道具化した事実を徹底して批判検証する以前に、ドイツ市民から学者や官僚に至るまでナチズムの過ち(不正)を身をもって体験することで、彼ら自身自らそれを希求したからに他ならない。

すなわち民意が反映するよう連邦や州から、都市やゲマインデ(村)に至るまで民意(選挙得票数)を重視し、審議会などの委員は得票数割合によって各政党から選出されることから、各政党は支持拡大のために自ら努力することから、必然的にガラス張りに開かれるといえよう。
また官僚も(連邦にしろ、州にしろ)政党に属しており、行政幹部は得票数割合によって選出されることから必然的に透明性が確保されている。
しかも官僚の裁量権は現場の官僚一人一人に移譲されたことから、官僚の責任が厳しく問われてている。
すなわち行政行使に際しては、詳しい内容から手紙や面会にいたるまでの記録が永久保存することが法律で義務付けられ、行政訴訟の場合(市民の殴り書きでも、審査において事実であれば訴訟費用も不要である)行政側に全ての記録を提出することが求められることから、最早日本のように特権階級ではなく、国民の召使以外の何物でもない。