イラン抗議デモが世界に拡がる理由
22日のZDFheuteが報道したイラン抗議デモは、「女性、生命、自由」を叫ぶデモ参加者が世界に拡大し、ベルリンでは8万人の市民が参加したことを伝えていた。
8万人という夥しい数は、ブランデンブルク門から勝利の女神像までの数キロを埋め尽くす数であり、嘗て勝利の女神像まで平和行進デモ参加したことのある私には、埋め尽くす人びとの「女性、生命、自由」という連帯する叫び声が聞こえるようである。
抗議デモの発端は、スカーフの風紀違反で逮捕された若い女性が取調べ中に死亡したからであるが、抗議デモがイランだけでなく、世界に恐ろしい速さで拡がる理由は何であろうか?
それは、単にイランの女性が長く宗教支配によって抑圧されてきただけではないだろう。
世界に拡がる抗議デモが叫ぶ「女性」は、現在の競争原理最優先の新自由主義世界のなかで抑圧されている人たちの象徴であり、本質的に個々の生命や自由が尊重されていない世界に、「女性、生命、自由」の連帯の輪を拡げようとしているのである。
また女性は「母なる大地」という言葉が示すように、生命を宿す自然の象徴であり、気候変動を含めて汚染された大地を蘇らせるエコロジー転換の前衛的象徴となって、世界に拡がっているように思える。
人類の存亡が問われているCOP27
ドイツの気候変動政策を牽引するニコラス・へ―ネ教授が述べるように、「私たちはまだ、この世界の政府が気候変動を危機と見なしていない状況にあり、それこそが危機であり、私たちは存亡の危機に瀕しています」という主張が的を得ているように思える。
エジプトで開かれるCOP27では、まさに人類の存亡が問われているのである。
しかし既に明らかなように、世界政府の殆どが気候変動を喫緊の人類存亡の危機とは見なしておらず、COP27では実行力のある決議が最初から先送りされると言っても過言ではない。
それは、最早後には戻れない臨界点1,5度の地球温暖化上昇を容認することであり、洪水や干ばつの激化、それによる食料危機の頻発は避けられないことを意味する。
しかも北海道の緯度にある、嘗てはクーラーなど見たことがなかった冷涼なドイツでさえ50度を超えてくると言う。
さらに南極やシベリアの最前線の研究からは、臨界点を超えれば氷の融解速度が加速し、すべての融解は時間の問題となり、10メートルを超える海面上昇は避けられないだろう。
それは、世界の大都市の殆どが海岸近くにあることから将来の壊滅を覚悟しなければならないことでもある。
しかしそのような存亡の危機を認め、世界が危機に立ち向うならば、私が書いた『2044年大転換』に見るように、大いなる禍は避けられないとしても、禍を力として希望ある理想的未来も見えて来るだろう。
何故今動物福祉が必要なのか?
26日のZDFheuteは、ドイツの2大スーパーマーケット「リドル」の販売する安い鶏むね肉が動物虐待飼育にあたるとして伝えていた。
映像で見る大量生産の飼育は日本人が見れば、身動きが難しいとはいえ平場飼いであり、ビオ生産の鶏むね肉に較べ5分の1の安さで、消費者に提供する企業努力は誉められべきであり、告訴やバッシングされる理由が理解できないだろう。
ドイツでは、2002年に動物の権利及び自然が与える生活基盤保障が不可侵の基本法第20条に付け加えられている。それは単にドイツ人が動物愛護や環境保護に寛容であるだけでなく、ローマクラブの「成長の限界」やルイチェル・カーソンの「沈黙の春」以降意識が高まり、最早動物との共生や自然環境を守らなくては暮らせない時代に到達したと認識するからである。
実際現在のような量産飼育は鶏感染症ウイルスを進化させ、感染症が見つかるや否やすべて殺処分しているにもかかわらず益々進化しており、世界に感染が益々拡がっている。
現在の見通しさえつかないコロナ感染も、本来コウモリなどに共生していたウイルスが野生動物搬入で市場に持ち込まれ、飼育動物の大量生産で人に感染するまでに進化して拡がったと言われており、すべてを売りもにし、絶えず成長を求めるグローバル資本主義では通用しない時代が到来したと言えるだろう。
しかも気候変動激化で、近い将来食料危機が避けられないのは既成事実でさえあり、そのような事態になれば、穀物約10㎏を餌にして、1kgの肉を生産するやり方は通用しないだろう。
私が幼少の頃父は高等師範の教師をしていたが、その安い給料では暮らせないことから学校(国)は畑と場所を提供してくれ、家族で畑を耕し、鶏を飼う反自給生活をしていたことを思い出す。
今でも畑でサツマイモを掘った記憶が、懐かしく湧き出してくる。
他の教師も、誰もがそのような半自給生活をしていたそうで、残飯を鶏に与え、卵を産まなくなったら、有難く頂くのが当たり前の時代であった。
そのような半自給的暮らしは今の若い人には理解できないだろうが、今から思えば楽しい記憶であり、そのような大地に根差した暮らしは、寧ろ本来の人間的な暮らしではないかとさえ思える。
もっともこれからの世代は、好むと好まざるにかかわらず、そのような半自給的暮らしをしなければ、生き延びれないのではないかと思っている。