(62)「ドイツから学ぶ99パーセントの幸せ」 第8回 何故一人勝ちのドイツが悪くなるのか。中編

前回述べたように国際競争力を引き上げることは、国民の恵まれた賃金、雇用形態、社会保障、年金を引き下げることを意味した。
それ故折角実現した国際競争力を、大きな利益が得られたからと言って、利益分配によって再び下げることは有り得ず、利益は一握りの人たちに分配された後、コスト競争に打ち勝つために海外に投資される。
すなわち新自由主義の寡占的市場経済における国益追求は、万人の幸せを追求する民主主義の社会的市場経済とは180度異なって、万人の犠牲を要求すると言っても過言ではない。
しかも規制なき新自由主義は、これまでドイツが築きあげた市民利益を追求する素晴らしい制度や教育を解体することから、益々社会が悪くなる。
例えばドイツのリサイクル制度を築いたデュアルシステム社(DSD)は、シューレーダの競争原理を最優先する「アジェンダ2010」の金融の自由化によって投機の標的とされ、2005年アメリカの年金などを運用する金融投資会社KKR(Kohlberg Kravis & Co)によって買収された。
DSD社は製造企業のリサイクル委託企業で独占的あったが、公共的使命が求められていたことから、「リサイクルしにくいものには高い企業負担」と「地域での収集分別とリサイクルが、地域の雇用と環境を守る」という2つの哲学を掲げ、収支詳細だけでなくリサイクルの実績や目標計画を市民にガラス張りに公表して、市民利益を追求していた。
しかし企業利益を最優先するアメリカの金融投資会社は、地域でのリサイクルといった目標を取り下げ、収集分別したリサイクル原料の多くを中国などへ売り払い、リュウベックなどの採算の取れない地域では、毎週のゴミ回収を2週間に1回にし、大幅に人員削減をした。
また情報公開も、宣伝効果のあるものしか、ホームページで公開しなくなった。
それは市民利益を追求するドイツのリサイクル制度が、企業利益を追求するリサイクル制度に呑み込まれたたと言えよう。
また2004年1月、マイスターの国として世界に名高いドイツが、衛生管理や安全性が求められる分野を除き、開業に必要なパン屋から理髪師に至るまで大半の手工業マイスター資格を「アジェンダ2010」の規制撤廃に基づき廃止した。
それは、これまでの社会的市場経済では地域の中小企業を守り、育成するだけでなく、社会の要の役割を果たしてきたマイスター制度が、新自由主義では業界の参入規制となったからだ。
すなわち技術よりも儲け、質よりも量への追求が加速されたことを意味しており、マイスター資格を開業資格や生産資格から取り去ることで、競争を強化した。
その結果量的安さが質を駆逐し、べカリーも安いチェン店が多くなり、2009年のベルリンでは5ユーロを切るフリザー(理髪店)の店が話題になるほど低コスト化が進んだ。
これまでのマイスターは社会的にも高く評価され、多くの子供たちの将来の夢はマイスターになることであったことから、その影響は計り知れないほど大きい。
例えばこれまでのドイツでは、学力は能力の一つであり、子供の能力に適した道に進むことが子供にとっても幸せであるという考え方が普及していたが、マイスターを経済的に保障する資格制限がなくなったことから大きく揺らいでいる。
そして教育では、大学がこれまで期限や中間試験のないディプロムやマギスター制度から産業の求めるバチュラー制度への転換を開始し、大学間の競争もこれまでの大学間の格差を作らない教授採用の仕組みなどが改正され強化されて行った。
しかもバチュラー制での学生は、これまでのように自由にゆとりを持って思考する時間もなく、厖大な単位認定試験に追われ、これまでの平均7年から3年もしくは4年で卒業するようになった。
また中等教育においても競争原理が追求され、それまで大学への入学に必要な期間は13年あったが、12年に短くする決定が2004年バーデン・ブルグ州やバイエルン州などから始まって行った。
それはドイツのゆとり教育が、アメリカや日本の競争原理を最優先する教育システムに呑みこまれていったことを意味し、ターボ・アビィとしてドイツ社会を震撼させた。
何故なら一年間の教育の短期化にも関わらず、カリキュラムの削減がなされなかったことから、学校はこれまで午前中に終了させていた授業を午後からも実施し、一週間に50時間の過酷な授業を行うところも生じたからだ。
そのため多くの生徒はストレスから健康を損ない、現在もドイツの大きな社会問題となっている。
2008年に放映されたのZDFフィルム「細い肩への重荷(ターボアビでの生徒の酷しい日常)」では、生徒が教育期間の短縮で頭痛や腹痛、さらに脅迫観念から心と体が蝕まれている現状を映し出していた。
またそれまで各高等学校の裁量に委ねられていたアビィトァ(卒業修了試験と同時に大学入学の認定試験)が、2005年から順次各州で統一試験へ変更されていき、教育の目標を大転換した。
すなわち総合的な認識による批判力や創造力を育成する教育目標から、国際競争に打ち勝つ知識力を育成する目標への転換であった。
それは従来のように社会に理想を求めたドイツ教育ではなく、産業に奉仕する新自由主義の教育以外の何者でもなかった。
しかも短縮されたターボアビのギムナジウムでは、容赦なく数割の生徒に落第が課せられ、落第した生徒はレアルシューレ(実科学校)やマイスターを養成するハウプトシューレ(基幹学校)への転校を余儀なくされることから、格差が益々拡大しいる。
そのため、これまで労働の分かち合いで一人でも多くの雇用を合言葉にしてきたドイツ市民も、子供を持つ家庭は暮らしの困窮だけでなく、厳しい教育競争にも巻き込まれている。