(347)鈴鹿山麓での農的創成(2)・見えて来たもの・『事件の涙』(内部告発の非情)が呼覚ます理念あるルールとバランスの構築

見えて来た理念あるルールとバランス

不耕起自然農を始めた畑は以前は棚田で少なくとも10年は放置されていたため、葦の硬い節根が地面の深くまで覆い、殆どミミズさえいないやせ地であることから、大豆の畝を基本として沢山播いた。
それらはやせ地ににもかかわらず10日程で見事に目を出し、青々とした芽には勢いがあり順調に見えた。
しかしそう思う間もなく、写真のように大豆だけでなく青菜もバッサリ食べられていた。
最初は犯人を特定できなかったが、食べられた後再び大豆の種を播き直し同じことを繰り返すうちに、糞や足跡から鹿であることがわかった。
そのため1反ほどの畑は、高さ2メートルまで網フェンスを高くした(1メートル程では容易に飛び越えるため)。
それで再び平穏を取戻した畑も、ある日まだ育っていない馬鈴薯の一部が掘り返されていた。
今度は網の下が掻い潜られた形跡から猪と推定された。
また翌日の昼に行って見ると森がざわめいており、2頭の猿が高い木によじ登り数十匹の猿が集団で山から下りて来て、私の畑にも数匹の猿が小松菜や青梗菜を食べていた。

こうした悪戦苦闘を繰り返していく中で辿り着いたのは電気柵であり、乾電池6個で発生する7000ボルトのショックパルス電流が野生動物に心理的恐怖を学習させ(ルール)、二度と侵入させないという触込みが目に止まり、最早他に頼むものもないという思いで設置した。
それから既に3週間近くが経つが、それ以後は動物の侵入した形跡はない。
もっともそれで万事解決とは行かないだろうし、電気柵設置が動物と共存するための適正なルール構築とは思っていないが、かつては共存していた里山などの復活を模索しながら、たえず理念あるルールの構築を求めて行こうと思っている。 
そうすれば節根で覆われたやせ地もいずれ豊かな土壌生態系バランスを生み出し、実りある日が来ると思っている(もっとも今は青菜も小さく、花が咲き黄色に枯れた馬鈴薯からは親指ほどの小粒芋しか育っていない。それでも紫色のアンデス種のものには勢いがあり、小さな青菜も緑が深く、収穫できたものから有難くいただいている)。
そのようにルールとバランスを感じる新たな暮らしのなかで、下に見るEテレ『事件の涙』に深く心を動かされ、またアメリカの身勝手な関税断行やEU亀裂の要因となり得るイタリヤの右派政権の誕生、そして具体性のない米朝首脳会談後の行先を危惧し、国内および世界における理念あるルールとバランス構築を切望せずにはいられない。

何故内部告発者の悲惨な現実が容認されているのか

5月8日に見たNHKドキュメンタリー「正義の告発・雪印食品牛肉偽装事件」が、心に深く突き刺さった。
16年前正義の告発を行った西宮冷蔵社長の水谷洋一さんが本来なら社会から讃えられるべきであるにもかかわらず、逆にバッシングによって悲惨な現実に向かい合っているからだ。
悔しい、悔しいと嘆きながらも、それでも未来を信じて必死に歩もうとする姿に胸が熱くなった。
このように内部告発者が悲惨な現実に向かい合わなくてはならない背景には、日本の実社会には内部告発者が組織破壊者と見なされる権威構造が根深いからである。
それ故2006年に施行された公益通報者保護法にはバッシング行為への罰則規定がなく、「正直者が馬鹿を見る」といった印象も強く、寧ろ告発を受けた企業側を保護すると言っても過言でない。
それは情報公開法が非公開を実質的に合法化しており、公共工事での公開入札の仕組がリニア開発に見られるように談合を巧妙化している実態からも理解できるだろう。
(実際私が体験したゴルフ場開発でも、環境アセスメントが開発事業者によって作成されることから、本質的に開発を合法化するものであった)。
そうした手厚い企業側への保護にもかかわらず、最近はこれまで日本を牽引してきたトップにまで不正が最早内部告発なくしても溢れ出しており、昨年末の神戸製鋼三菱マテリアル東レなどの組織ぐるみのデーター改ざん不正では、不正が以前から日常化していたことを明るみに出している。
また南スーダン日報問題、森安問題、加計学園問題で、政府組織自体が資料改ざん等の不正実態を露見させている。
そのように不正が蔓延している実態は、既に日本の経済発展が70年頃から行詰まり、利益追求を最優先させるために法案による公正さ追求とは逆に、不正が容認されてきたからと言えよう。
そこには戦後も、日本が明治にドイツから学んだ富国強兵へと導く仕組の継続が垣間見られる。
すなわち明治に国際社会での日本の近代化を求めた大久保利通使節団は、鉄血宰相ビスマルクに「国と国との関係は万国公法と言う国際ルールに基づいている。しかしそのような約束事は絵空事に過ぎない。大国は自分に利益がある場合は万国公法に従うが、ひとたび不利益と見れば、たちまち軍事力にものを言わせてくる。国際社会で小国が生き残るためには国家を強くしなければならない」と諭され、富国強兵へと導くドイツ官僚制度を学んだのであった。
それは殖産興業を通して絶えざる外への発展を求め、国益のためには国民の犠牲も厭わない仕組と言えるだろう。
ドイツは戦後ナチズムの反省から、そのような恐るべき仕組みを国益よりも国民の幸せを優先させることで、官僚支配から官僚奉仕するものへと180度転換させた。
すなわち行政の責任が容易に問えるよう、司法を行政から完全に独立させ、お金のない市民の口答での申請でも行政裁判を可能にし、強制的に行政に資料提出を課することで、官僚支配から官僚奉仕へと大変革を遂げたのである。

ドイツの内部告発の実情
そのように官僚奉仕が求められるドイツにおいても、VW(フォルクスワーゲン)社に見られるように企業の不正に対しては容認されていると言っても過言ではない。
その理由は戦後国民の幸せを最優先するために、企業活動は共同決定法を通して従事する市民に任せられたからである。
すなわち市民を豊かにする企業活動は従業員の半数が経営に参加することで、企業活動の不正は市民に委託されたと言えるだろう。
少なくともそれは、VWが93年に20億マルクという大きな赤字を出した際まで機能していた。
その際経営陣は10万人の従業員のうち3万人のリストラを強く求めたが、経営決定会議で半数を占める従業員役員の主張が通り、リストラなしで従業員の賃金15パーセント削減と週休二日の36時間から週休三日の28、8時間という労働の分かち合いで決着し、ドイツの労働者の連帯が世界に誇示されると同時に、その公正さがアッピールされた。
しかしシュレーダー政権の誕生時には、殆どのドイツ企業はグローバル競争の激化で危機に晒され、従業員の属する組合が御用組合化することで共同決定法が機能しなくなり、企業活動の公正さが激変した。
すなわち企業の国際競争力強化と利益追求が最優先され、長年をかけて築いた世界一豊かな労働者の権利が根こそぎ奪われ、企業活動の公正さも失われて行った。
現在グローバルな競争原理主義をキャラバン資本主義と辛辣に批判するシュピーゲル誌さえ、当時は国際競争力の強化こそがすべての解決への道であるといった主張が大半を占めていた。
そのように企業活動の公正さを失って行ったドイツにおいても、豊かであったドイツ市民の暮しが一気に低下し、市民の8人に1人が相対的貧困者に没落するに至り、競争原理優先の「アジェンダ2010」政策を実施した社会民主党(SPD)が2007年のハンブルグ綱領で自ら反省した時点から変化し始め、2008年のドイツが最大の被害を受けた世界金融危機で目覚めたと言えよう。
すなわち企業活動の不正を正すために、下の動画でもわかるようにZDFなどの公共放送から新聞や週刊誌に至るまで市民の側に立って企業活動の公正さを追求している。
そのように公正さを追求するドイツも、メルケルのシリア難民受入れ挫折に見られるように、国際的公正さに対しては本質的には及び腰である。
それはドイツがEU域内で、経済的に一人勝ちである事実と決して無関係ではない。
すなわちドイツは自国での規制なきグローバル競争をキャラバン資本主義と批判できても、EUでの自国利益が国民の豊かさをもたらしていることから、EUでの競争原理優先の利益追求を実質的に容認している。
それがEU加盟国の経済格差を肥大させ、東欧に右派政権を誕生させるだけでなく、大国イタリアにおいても若者の失業率30%を招くことで右派政権を誕生させたと言えよう。
しかしEU加盟国の経済格差肥大がこのまま進行すれば、いずれ亀裂が弾けることは明白である。
そうなれば、歯止め役を失った世界が終末戦争に向かうことも絵空事ではない。
本来EUの理念は加盟国全体が豊かになって行くことであり、その理念は少なくとも京都議定書の際まで機能しており、理念あるルールとして産業大国ドイツには大幅な二酸化炭素削減義務が課せられ、非産業国には逆に大幅の増大を認めていた。
そうした理念あるルールの実現こそが今EU、そして国連に切に求められ、世界の現在の危機を救うものであると確信する。
それは下の『問われている食料品の地域性』が暗示させるように、商品の輸送距離に対応した地産地消促進のための課税がその第一歩となり得るだろう。
最初の私の直面する暮らしに戻れば、そうした理念あるルールの実現こそが地域を蘇らせ、地域そして世界に豊かで平和なバランスを生み出して行くと切に感じている。