(467)ウクライナ戦争を生み出しているもの

ヨーロッパ民主主義の危機(ウクライナ戦争の原因)

 

 上の動画は、ドイツ公共第一放送ARD制作の「レスペクト(尊重)」シリーズの番組の一つであり、まさにドイツの戦う民主主義(永久革命としての民主主義)を象徴するものである。

(これらの何十もの民主主義を守るための作品が制作放映されており、学校で青少年政治教育の教材としても使われている)

 今回の「ヨーロッパ民主主義の危機」はウクライナ戦争が起きる前の2021年に7月に制作放映されたものであるが、ポピュリズムの台頭で70年間続いたヨーロッパの平和が危機にあることを警鐘している。

嘗てワレサ議長率いる「連帯」で民主主義を希求したポーランドが、2004年にEUに加盟し、農業だけでなく様々な分野でEUの莫大な助成金を受けて、10年間で豊かさが全体として倍増し、EU加盟国の何処にでも行けるだけでなく、何処にでも暮らせる自由を手にした。

しかしその頃にはポピュリズムが蔓延し、2015年には右派政党「法と正義」が10月の国民選挙で圧倒的勝利を勝取り、2015年末には憲法裁判所の違憲判決を過半数多数決から3分の2多数決に変え、実質的に憲法裁判所の機能を無力化した。更にメディア改革で公共放送を国家文化機構に変え、権威主義体制に呑み込まれて行った。

 このフィルムで取上げている「ポーランドはナチズムのホロコースト犯罪の関与していない」という法律は(2018年にポーランド議会で議決されたホロコース法)、まさに過去の事実を変える歴史の改ざんである。

それは単なる歴史の改ざんだけに終わらず、その背後では治安維持法のような法律が機能し、社会全体が独裁国家へと変貌して行き、最早ブレーキが効かなくなりかねない。

事実ハンガリーのオルバン政権は最早独裁化しており、ポーランドも2015年以降カンチスキーの独裁化が益々強まっており、大衆支持も一過性のものではなく、益々強まっている。

このフィルムが伝えるポピュリズムとは大衆迎合であり、ポピュリストの戦略は絶えず同じであり、「エリートと大衆の間にある敵対をでっち上げ、強調する」ことである。

エリートとは、大衆とかけ離れた上にある人であり、ここではポピュリストと反目する政治家、理想を求めるEUのような機構に関与する人、メディアなどの人であると述べている。

そして、「ポピュリストは不安を掻き立て、強く感情を呼び起こすテーマで大衆をつかみ取る」、「その際事実はなんら役割を果たさず、ポピュリストは大衆を興奮させる敵の像を必要とし、作り上げる」と述べている。

事実ポーランドでは、2015年まで極右党首と報じられていたカンチスキーは、国民選挙で「避難民受入れは、南ヨーロッパで忘れていた病気を呼び覚ます」と述べ、国民の不安を掻き立て、EUのシリア避難民受入れ義務拒否を掲げ、大衆を扇動していた。

カンチスキー右派政党が大勝利した後「ディ・ツァイト」10月29日報道では、勝利の第一の理由を新自由主義の格差拡大に対して包括的社会政策(年金や子育て手当の大幅値上)をあげ、第二の理由に政治家の多くに若い女性を登用し、EU議会ポーランド議員代表にドゥダ、女性首相にベアタとし、党首カンチスキーが見えないようにしていると書かれていた。

また第三の理由として、政治綱領には選挙民を優先する政策しか書かれておらず、日頃主張する憲法改革などの問題となっている政策には一切触れていないことを挙げていた。

しかし大勝利した後はポピュリズムの唱える議会多数決で、憲法とメディアを支配し、ポーランド法に見られるような歴史の改ざんで独裁化を推し進めている。

そうした経緯は、無法なウクライナ戦争を開始した独裁者プーチンがそうであり、まさにポピュリズムが作り上げたと言えるだろう。

すなわち社会主義のロシア崩壊後、競争原理優先の新自由主義到来で競争社会に一変し、他者に不寛容であるばかりか、バッシングやヘイトスピーチが連鎖するなかで民主主義が育たず、多数万能のポピュリズムが台頭し、独裁者プーチンを誕生させたのであった。

そのような視点から見れば、現在のウクライナ戦争もポピュリズムが作り出したものであり、私たちが帰属する民主主義の原点に立ち戻り、民主主義がポピュリズムに取り込まれていないか、考えて見なくてはならないだろう。

 

新刊の紹介

永久革命としての民主主義』

(ドイツから学ぶ戦う民主主義)

 

[https://www.amazon.co.jp/dp/B0BVTLRXGC?ref_=pe_3052080_397514860]

 

 

 

 私は紙本で育ったことからペーパーバック版も出しましたが、キンドル版は安いし、私がドイツの公共放送に日本語字幕を付けた映像作品にリンクされ、映像で楽しみながら学べるので試して見て欲しい。

私自身kindle本を敬遠していましたが、本が読みにくくなって初めて試したところ、文字が自由に読みやすい大きさにできることから、キンドル版がある場合は利用しており、もっと早くから利用すべきだったと思っている。

尚この本の説明紹介では以下のように書いている。

 この本は、多難な禍が次々と到来する危機こそ希望ある未来を創る力であり、それを為し得るものは、ドイツから学ぶ「永久革命としての民主主義」であると説いている。
また今回電子書籍及び紙本が無料で易しく出版できたことについては、紙本の「あとがき」で以下のように書いているので参照して欲しい。
 私のように学者でもなく、作家でもない一市民が、世に訴える本を書きたくても、お金なしでは出版することが非常に難しい時代になって来ている。
そうしたなかでアマゾンでの書籍出版は、電子書籍だけでなく、紙本さえも、「誰でも無料で易しく出版できる」と聞き、今回試して見た。
 私自身団塊の世代であることからも、パソコンは何とか使用できても、スマートフォンは殆ど使いこなせていないことから、途中で投げ出したくなったことも屡々であった。
それでも独力で頑張り、書き終えて見ると、「誰でも無料で易しく出版できる」といううたい文句が本当であったことに、今更ながら驚いている。
 そのようなアマゾンの仕組は、この本で述べているように、ドイツの「永久革命としての民主主義」の引金を引いたのがハリウッド商業映画『ホロコースト』であったように、世界の「永久革命としての民主主義」の引金となり得るものだと思っている。
何故なら市民一人一人が、誰でも自らの思う訴えを容易に出版できれば、その波紋が拡がって行き、究極的に社会を競争から連帯に変え、世界の人々が望む希望ある社会を創り出し得るからである
 私自身も、これまでブログ「ドイツから学ぼう」で長年書いてきたことを掘り起こし、『ドイツから学ぶシリーズ』を出していくことで、「永久革命としての民主主義」の引金を引きたいと思っている。
 そのためにも最早避けられない気候変動激化など、降りかかる禍を力として、生涯書き続けるつもりである。

 

(466)『永久革命としての民主主義』・ドイツから学ぶ戦う民主主義

(予定では理想を追求するドイツの医療(4)を書くつもりでしたが、ドイツでの医療革命が中々進まないこと、また昨年から思うことがあり電子書籍永久革命としての民主主義』に取組み、そちらに気がとられ進まなくなったことから、期待してブログを訪れた人には申し訳ありません。尚「理想を追求するドイツの医療」については、夏頃ドイツの医療革命が進展すれば、続きを書きたいと思っています。

昨年12月19日に放映したZDFのWISO(どうしてなの)は、字幕を既に付け終わっていたので下に載せておきます。

フイルムからは、昨年末のドイツの医療はコロナ最盛期以上に混乱している様子が見てとれます。しかしそのような禍を力として、克服の道を切り拓いて来たのもドイツであり、私自身も期待する次第です。)

 

 購入価格Amazon300円

 

なぜ今『永久革命としての民主主義』を書くか

 

 上の表紙の写真は、1983年NATОがバーデン・ヴュルテンベルク州東部地区ムトランゲン核ミサイル基地配備を決め、ドイツ市民の激しい反対にもかかわらず基地配備が進むなかで、公職の中立性が求められる裁判官たちが刑事罰を覚悟して基地前専用道路に座込み、国民世論を動かし、基地配備撤去で勝ち取ったものである。

 それはドイツの民主主義を大きく前に進め、ドイツの裁判官たちは市民の重要な問題に対して、積極的な意見表明を可能とし、絶えずドイツの民主主義を進化させている。

 もっともそれを可能にしたものは、公職法より基本法(ドイツ憲法)が優先されたからであり、基本法がそのように導いたと言える。

 基本法はナチズム独裁国家、そしてホロコーストを許した深い反省から、二度と過ちを繰り返さない強い思いから作られており、過去の禍を力として、将来訪れる禍を克服する力が秘められている。

事実核ミサイル基地配備でも、禍を力としてドイツの民主主義を進化させているのであり、昨年のドイツはロシアからの天然ガス禁輸で大変であったが、そうした禍を通して、絶えず前に進んでいる。

現在は世界の民主主義の危機であり、気候変動激化、食料危機、頻発する感染症など、禍の到来は避けられないとしても、禍を力として、自由、平等、戦争のない世界を創り出して行くことを希求して、『永久革命としての民主主義』を書き上げました。

(下に序章を紹介文として載せておきますので、読んで共感できれば購入し、知り合いにも薦めて下さい。拡げることで日本、そして世界を変えることができると思うからです)

 

日本の『永久革命としての民主主義』 

 「永久革命としての民主主義」と述べたのは丸山眞男であり、一九六〇年新安保条約が国会で自然承認された二か月後に、「永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。民主主義は制度としてでなく、プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的なのである」と述べているNHK「知の巨人たち」丸山眞男)。

  日本の戦後民主主義の育ての親とも言われる丸山眞男は、新安保条約での国会衆議院での強行採決暴挙に対して、「この事態を認めるならば、それは権力がもし試すれば何事も強行できること、つまり万能であることを認めることであり、権力が万能であることを認めることはできない」として、世に問う運動として「永久革命としての民主主義」を掲げた。

そこには、少なくともこの時まで、戦前の「国民は国家に奉仕すべき」支配国家体制から、戦後の「国家は国民に奉仕すべき」という転換を基に、民主主義を育んできた自負があり、挫折を乗り越えて、絶えず民主主義を育もうとする強い意志が感じられる。

そのような意思に反して、この時を起点として日本は、一九六〇年代の高度成長を通して経済が最優先され、民主主義退歩を繰り返して行ったと言っても過言ではない。

丸山眞男自身も、六〇年代終わりの民主主義の退歩を力によって変えようとする学生運動に向合うことができず、東大教授を辞して市民との対話を通して立て直そうとした。

 しかし七〇年代の日本列島改造、八〇年代のバブルのなかで、戦後民主主義は益々衰退して行き、「永久革命としての民主主義」の思いが叶わずして八六年にこの世を去った。

それでも前年のオーム真理教一斉逮捕に際しては、「戦前は日本全体がオーム真理教だった」と述べ、「私自身は大日本帝国の実在よりは、戦後民主主義の虚妄のほうにかける」と言って、「永久革命としての民主主義」に思いを馳せ、諦めていなかった。

しかしその後の日本は、九〇年代から現在までの失われた三〇年で見るように、絶えず国家成長を追求したにもかかわらず、国の負債は肥大し、一握りの人たちが偏った富を得ている反面、多くの人たちが暮らしに困窮し、戦後の弱者に配慮した民主主義が退歩し続け、再び戦争が始まる方向へと向かっている危機感さえ感じられる。

そのような危機感は、昨年NHKが放映した『新・ドキュメント太平洋戦争』(第一回第二回第三回第四回)を見れば、自ずと感じられるだろう。

この番組は、戦時下に生きた人々の日記や手記を通して描かれており、膨大な資料をデジタル化することで、当時の人々の本音や意識変化を浮かび上がらせている。

ジャズやハリウッド映画に憧れた少女が愛国少女になるだけでなく、軍部下当時の政治を批判していた新聞記者が愛国者になっていく意識変化は、時代の波が巻き込んで行く恐ろしさを強く感じさせる。

また回が進むにつれ、日本の敗色が強まるなかで、戦時下で生きた人々が自らの命を家族のため、国のため、命を捧げた純真な振舞いは、涙なしには見られない。

私自身は、権威的ナショナリズムを嫌悪し、翼賛的社会にだけは生きたくないと思っているが、この時代に生きていたら、恐らく時代の波に巻き込まれ、父母たちのように愛国者として振舞っていただろう。

そのような思いから、二度と戦争を繰り替えさないため、そして丸山眞男が思いを馳せた「永久革命としての民主主義」を根付かせるためにも、日本はドイツの「永久革命としての民主主義」を学ばなくてはならないと思っている。

 

ドイツの『永久革命としての民主主義』

ドイツの民主主義は、ナチズムを通してホロコーストを犯した深い反省から始まった。

ナチズムが誕生したのは、第一章で述べているように、民主主義の理想を求めたワイマール共和国の誕生にある。

ドイツ帝国を市民革命によって誕生させたワイマール共和国は、議会制民主主義国家であり、民主主義の理想を掲げていたにもかかわらず、本質的には官僚支配国家であり、富国強兵、殖産興業で窮地を乗切ろうとした。

それは一時的に繁栄をもたたすが、産業が行き詰まると、大部分の国民を困窮させ、必然的に国家社会主義(ナチズム)を生み出して行った。

何故なら産業の行き詰まりで困窮する社会では、不公平、不公正を正すことが求められ、金融投資で益々裕福になる一握りの人たち(ユダヤ人)を糾弾しようとするからである。

すなわち公平、公正を求めるヒトラーの率いるナチズムが、圧倒的な国民の支持を得て、なにも決められないワイマール共和国の民主主義を合法的に葬って行った。

しかし実質的に国家を運営したのは、官僚支配構造であった。

官僚支配構造とは、殖産興業、富国強兵を唱えて、絶えず成長を求めて国家を富ませるための仕組であり、国民を国家に奉仕させる仕組であり、成長が限界に達すると戦争に駆り立てる仕組でもある。

そのような官僚支配構造が、人間をモノとして扱い、ホロコーストという大罪を犯したのであった。

それゆえ第二章で詳しく述べているように、ドイツの戦後の民主主義はその深い反省から始まり、国民に奉仕する国家を創ることであった。

そのため一九四九年に誕生させた基本法(ドイツ憲法)は、第一条から第二0条までにおいて「国家は国民のためにある(国家は国民のために奉仕する)」を明確に規定し、民主主義の理念を具体的に守るものであった。しかもこれらの規定は、多数決によって変えられない不可侵であった。

しかしそのような規定にもかかわらず、戦後占領軍によって公職追放された元ナチ関係者一五万人の殆どが、アデナウアー政権が出した「非ナチ化終了宣言」で公職復帰し、外務省の官僚は三分の二が元ナチス党員であり、裁判官や検事も元ナチス関与者が千人を超えていた。

そのような公職復帰はドイツが西と東に分断され、ソ連支配の東ドイツが共産化を推し進めようとした背景があるとしても、国家の復興を早期に実現するには熟練者の存在が不可欠であったからだ。

それゆえ五〇年代は、戦前の官僚支配構造への回帰が様々な分野で見られた。

しかし日本のように官僚支配構造に戻ることがなかったのは、基本法の第一条から第二〇条が守ったからである。すなわちこれらの不可侵の条項が、ドイツの戦後の民主主義の理念を守るために、遅まきながら徐々に機能し始めたからであった。

特に第一九条四項の「何人も、公権力によってその権利を侵害されたときは出訴することができる」は、容易に行政訴訟が為されるよう導き、一九六〇年に成立させたドイツ行政裁判法では、「行政当局は記録文章や書類、電子化した記録、情報の提出義務がある(第九九条第一項)」を明記し、行政に過ちがある場合有耶無耶にできないようにしたからである。

それは、裁量権を持つ官僚一人一人の責任を問うものであり、戦前の官僚支配構造から官僚奉仕構造へ変えたと言っても過言ではない。

そのような驚くべき変化が、日本の官僚制度誕生の生みの親でもあるドイツで実現できたのは、基本法を守り、基本法を的確に機能させてきた連邦憲法裁判所の存在が大きい。

ドイツの連邦憲法裁判所は五一年に設立された時から、国民にガラス張りに開かれている。すなわち一六人の裁判官たちは選挙での政党得票率で各政党推薦の裁判官であり、競い合って国民に正義を訴えている。

しかも協議室の議論は、国民にガラス張りに開かれており、裁判官たちの相反する激しい議論を見ることで、国民が合意を求める民主主義を学べるよう意図されていると言えよう。

そして第三章では、そのように配慮されたドイツの民主主義が、どのようにドイツの民主主義を絶えず進化させてきたかを述べている。

しかし現在の世界の民主主義はロシア侵攻のなかで、危機に瀕していることも事実であり、第四章ではドイツの民主主義がどの様に立ち向っているかを述べた。同時に世界の民主主義がなぜ危機に陥っているかについて書くと共に、その克服には究極的に経済の民主化が必要であることを述べ、第一部を終えている。

四月刊行予定の「永久革命としての民主主義」第二部では、ドイツが気候変動の激化、格差拡大、コロナ禍、ウクライナ戦争のなかで、気候正義、社会正義を通して、どのように経済の民主化をしようとしているかを述べたい。

またそこから演繹される「永久革命としての民主主義」の社会、すなわち世界が禍を力として、どのような希望ある民主主義社会を築いて行くか、検証したい。

(尚この本の第一章から第四章までを読んでもらえばわかるように、至る所で私が日本語字幕を付けたドイツ公共放送の動画を通して、映像でやさしく学べるようにしています。また今回の電子書籍「ドイツからの学び」シリーズでは、全ての本でそのように映像でやさしく学べるように考えており、日本の民主主義を取り戻すためにも、順次出して行くつもりです)

 

理想を追求するドイツの医療が直面する禍

残念なことに、WISOフィルムは著作権が行使され、見れなくなりました。

 

 映像からは理想を追求するドイツの医療が、禍に見舞われている様子が伝わって来る。もっともドイツが絶えず禍を力として理想を推し進めてきたことも事実であり、夏頃までの医療革命に期待したい。

(465)理想を追求するドイツの医療(3)多難な医療革命・医療の理想は取戻せるのか

多難な医療革命

 

 1月に入り、フイルムで見るように、ようやく医療改革で州との折衝会議が始まった。

ラウターバッハ保険大臣は、「私たちは、病院部門の必要不可欠な革命の前夜にあります」と革命を今年夏までに断行するつもりである。委員会での専門家は、移行期間に5年間を提案している。

そのように医療革命が最初から長期化が予想されるのは、これまで包括支払い制度の問題が10年以上前から指摘されて来たにもかかわらず、解消されて来なかったことからも頷けるだろう。

包括支払い制度はシュレーダー政権のアジェンダ2010(新自由主義政策)で、2004年に開始されたもので、疾病金庫から診断症例別に病院に定額の支払いがなされることで、患者の入院期間を短縮するインセンティブを働かせ、病院の収益性を高めるねらいがあった。

何故なら包括支払い制度には、治療期間、治療スタッフの数、投薬量などが一切が考慮されていないからである。

だからと言って、戦前のナチズムの反省から患者への奉仕を誓ったドイツの医療が、患者の治療に手を抜いているわけではない。

ナチズムの深い反省から創られた基本法では、「国家が国民に奉仕する」ことを求めて、第一条から第20条までを多数決では変えられない不可侵の法として、国民の幸せを最優先し、第20条1項で社会正義と社会保証の実現を掲げているからである。

そして2003年には、医師、患者、医療及び医療行政に関与する人たち全てで創り上げた「患者のための権利憲章」が出され、患者の自己決定権、医師の説明義務、良質の医療を求める権利、さらには医療訴訟での立証責任軽減など、世界に秀でた医療の理想を求めている。

そのような背景があるからこそ、シュレーダー政権から始まった競争原理優先の経済圧力のなかで、医師たちは苦悩しているのである。

ラウターバッハがこれまでに打ち出している医療革命は、包括支払い制度による支払いを60%に削減し、40%をスタッフなどの人件費や医療の質向上に変え、病院医療現場を救済するだけでなく、医療の理想を実現できるものに変えることである。

そのために病院を、家庭医と緊密な協力して応急治療する近くの病院、重点治療の専門病院、最高レベルの治療ができる大学病院に3つに区分けして、医療革命を実現していくと述べているが、具体的にはよくわからない。

なぜなら、ドイツの医療の基本は家庭医であり、市民の誰もが近くの家庭医を選び持ち、家庭医の手に負えないものは専門病院や大学病院に紹介するシステムであり、既にそのような区分けがあるように私には思えるからである。

ドイツの家庭医(開業医)は受持つ定員が限られていることから、日本のようなビジネス競争もなく、レントゲンなどの機器でさえないのが一般的であるが、受持つ患者の心配や要望親身に聞き、検査の必要性や手に負えない場合は、適切な専門病院や大学病院を紹介してくれることでは定評がある。

確かに患者は一旦家庭医を登録すれば、日本のように自由に医師を選べないが、患者の自己判断で医院を渡り歩き、その度に検査を繰り返す医療は考えものであるし、健康保険費用が枯渇する要因でもある。

尚ドイツの医療保険は日本のように国や市町村によって運営されるのではなく、地域や職種に密着し、弱者救済の社会的連帯を掲げる公益非営利組合の疾病金庫が運営主体であり、新自由主義の波が押し寄せた90年のドイツ統一までは疾病金庫の数は1000を超えていた。

しかし病院の民営化という医療の民営化が進行するなかで、疾病金庫間の競争が激化し、吸収合併を繰り返し、最近では100ほどに減少し、厳しい競争に晒されている(市民の疾病金庫に支払う料金は収入の14%ほどで、半分は雇用者支払いである)。

また病院の経営状態も、ドイツ病院協会(DKG)の調査で良好と答えたのは僅か6%であり、多くの病院が倒産の危機にある。しかしそうした経営危機にある病院が国際的投資会社のターゲットになっているのである。

公共放送ARDの調査では、既に数千の小さな病院が買収されており、眼科では500以上に上り、歯科、整形外科、婦人科、腎臓専門、内科などでも投機買収が為されている。

買収された病院は利益追求に特化され、例えば眼科では白内障手術を急増させて、より多く稼いでいる実態を明らかにしている。

しかもこうした病院の投機買収は過去3年で3倍に増加しており、益々増加することが予期されている。

このような状況にあることから、ラウターバッハは既に述べたように、病院の投機買収禁止を今年4月までに法案化することを約束している。

もしこれが実現すれば画期的で、新自由主義の金融自由化を崩すものであり、まさに医療からの革命と呼び得るものであり、そのような大きな視点でラウターバッハが医療革命の前夜と呼ぶことに期待したい。

 

スイスへ出た医師が蘇るわけ

(『ドイツの医療・理想が燃え尽きる理由3-3)』


 最終回は毎年凡そ2600人のドイツ医師が海外に出て行くが、その多くはスイスであるというナレーションから始まる。

ZDFは、スイスのアルプス温泉スキー保養地シュクオールの病院で院長として2007年から従事しているドイツ医師ヨアヒム・コペンベルクを取材し、ドイツとの違いを聞いている。

ヨアヒム院長は、「患者が今も尚最優先され引き続き第一の権利があることです。医師と介護する人が患者のための時間が持てることは非常に重要です。そしてここスイスでは、人は公正で理性あると思われる医療に置き換えるためにもう一つ別の価値観、可能性を事実持っています」と述べている。

具体的には、例えば頭痛と目まいを訴えて来た患者は少なくとも2日間入院してもらい、経過を観察する方法を採っていると明かす(すなわちドイツのように精密検査で疑わしい場合は、手術というような方法を採っていないということである)。

医師が経過を観察し、当面は大丈夫と判断すれば退院できるやり方では、医師も真剣にならざるを得ず、そこには患者とのふれあいがある。

経過観察の間は対症療法的に投薬や栄養補給などの処置が、医師の裁量によって施されることから、保険支払いを超える場合は助成金申請ができると満足そうである。

そこには、医師が経済圧力を受けることなく、患者に存分に尽くすことができ、生きがいが感じられる。

そうしたスイスでの噂を聞き、ドイツから抜け出してくる医師も少なくなく、4人の医長は給料的には期待できないにもかかわらず、自ら進んで応募して来たとヨアヒム院長は述べている。

こうしたスイスのやり方を調べてみると、ドイツのように過度に手術をしないことから人口当たりのベッド数は半分ほどであり、心筋梗塞で亡くなる患者が心臓手術で世界一の技術を持つドイツの半分というデータも出ている。

もっともこうしたスイスのやり方は、医療に経済的競争原理導入前のドイツの医療でもあり、医療革命では、これ抜きには成功しないだろう。

尚ドイツの医師の所得は、OECDの調査によれば平均で年間8万ユーロほどで、アメリカ、英国、スウェーデンなどに比較して、もちろん日本に比較しても著しく低い。

それにもかかわらず、むしろ給料が下がるスイスに出て行く医師が多いのは、医学生が卒業式で真摯に誓う「ピポクラテスの誓い」、「私の生涯を人の奉仕に捧げます。・・・私の患者の健康が、私の治療の最上の規律となるようにします」が心に育まれているからだろう。

そのようなことは日本では想像もできないことかもしれないが、大学受験や授業料のないドイツでは、幼少教育で自立と批判力の育成が最優先され、大学受験に替わる卒業試験(アビトゥア)では、百科全書的知識を求めるものではなく、考え方(論理性)が求められているからでもあろう。

そうした教育のなかで医学生は確かに成績優秀者であるが、自らの信念なくして医師を選択しないだろうし、それなくして務まらない大変な職業であるからだ。

(464)理想を追求するドイツの医療(2)患者に奉仕する医療を取戻すことができるか?

なぜドイツの医療に理想を感じるか

 

 前回のフィルムに見るようにドイツの医学部卒業生が、「患者への奉仕」を誓うピポクラテスの誓いは、戦後の教育の民主化で「競争より連帯を求める」理念が育まれているからであろう。

しかし私自身がドイツの医療に理想を感じるのは、身をもって体験したからでもある。

1992年の春、酸性雨による被害を探索するためシュヴァルツヴァルトの黒い森を何日も歩き回った。

そのため足が痛くなるだけでなく、疲労困憊した時、知り合った人から聞いたのが、バットヴァルトゼー(Bad Waldsee)のクワクリニック(温泉病院)であった。

紹介なし、予約なしの飛び込みであったが、病院は全く手続きなしで、温かく迎えてくれた。

医師の診断際40歳前後の愛想の良い男性医師が、症状だけでなく、私の要望を何でも遠慮なく言ってくれというので、日本では考えられないことであるが、「内服薬は余り飲みたくない、費用が余りかからないようにして欲しい」と、要望をすんなり言えたのも不思議であった。

医師は私の要望を汲み、3日間300マルク(現在の150ユーロ程)ほどの治療スケジュールを作ってくれ、毎日足だけでなく、首から下を温かい泥で包むクナイプス療法に加えてマッサージしてもらい、さらには泥風呂と水浴を繰り返した。

特に温かい泥で包むクナイプス療法は心地よく、3日間で単に足の痛みが取れただけでなく、体全体がリフレッシュできた。

そこでのクワクリニックで治療を受けている人は中高年者が殆どであり、プールで泳いだり、森の小道のワンゲルを楽しみ、さらにはビールを飲みながら談笑を楽しんでおり、病人という感じはまったくなかった。

ドイツの医療では、腰痛や高血圧などの慢性疾患に対して保養地のクワクリニックでの治療が推奨されており、医師の診断書さえあれば4週間の治療休暇が有休を使って与えられ、費用は健康保険で100%賄われると言うことであり、そこでの雰囲気には、医療の理想を感ぜずにはいられなかった。

そのような理想的医療が、アメリカ及びイギリスの凋落を受けてレーガンサッチャーの競争原理最優先の新自由主義に呑み込まれて行き、2004年から始まった包括支払い制度によってドイツの多くの医師が燃え尽きており、長年この医療制度と向き合ってきた保険大臣ラウターバッハが、昨年12月6日に医療革命を宣言したのであった。

それを単なる医療改革と呼ばずに、医療革命と保険大臣が言うのは、下の昨年10月25日のZDFフロンターレが描く『病院医師は限界』を見れば明らかだろう。

 

どうすればドイツの医師たちは救われるか?

 

 なぜドイツの病院医師が限界なのかと言えば、上に載せたZDFフロンターレが昨年の10月25日に放送した『病院医師は限界』がその実態に迫っており、チム・アルドナルドのような集中治療室専門医が16時間連続勤務に加えて、週65時間という過剰労働を強いられているからである。

過剰労働が強いられる理由は、医療に利益追求を求める包括支払い(報酬)制度が2004年から導入され、小児科などの病棟は労力と多数の手がかかるにもかかわらず、包括して支払わる額が少ないことから、支払われる額の多い手術主体の病院になって行くからである。

すなわち病院に利益を生む内科や外科などの手術数が増やされ、必ずしも必要としない患者まで手術をすることで、全体でベッド数が2倍に増え、入院患者倍増によって労働も倍増したからである。

また包括報酬制度で支払を受けるために、医師が翌日患者に使用する薬に対して、副作用やこれまでの効果について書き込んでいくという官僚的事務作業が必要となり、毎日3時間も費やさなくてはならないからである。

そうした医師を限界にする理由は、下に載せた『ドイツの医療・理想が燃え尽きる理由3-2』でも強調されていることであり、その理由が明きらかでも、解決方法となると見つからないのである。

例えばこのフィルムでも描かれているように、信号機連立政権の協定では医師の官僚的(事務作業)撤去法案が合意されているにもかかわらず、具体的にどうするかでは、現在の経済利益を求める医療の枠組では見つからないのである。

それ故現在の経済利益を求める医療を患者利益を求める医療に大転換する必要があり、転換することさえできれば官僚的事務作業は不必要となり、すぐさま撤去できるだろう。

しかし既に利益を追求する経済構造が出来上がっているからこそ、保険大臣が医療革命を宣言しても、その達成を疑問視する人たちは決して少なくない。

 

医師の使命が人間の商品化によって損なわれている

(『ドイツの医療・理想が燃え尽きる理由3-2』)

 

 今回のフィルムは、アンケート調査でドイツの医師の71%が過重労働による睡眠不足と疲労から健康を害している実態を問い正すことから始まっている。。

医師連盟のマールブルグ連盟の代表は、医師たちが経済圧力によって「仕事へのモチベーションが弱まり、医師の健康は過重な労働時間構成で損なわれ、患者への集中力が低下し、病院の経営に甘受し、医師は消耗していきます」と語ってくれた。

それゆえ取材班は、なぜ病院は医師たちに経済圧力強いなければならないかを、レマーゲン市(ケルン近郊の都市)のマリア・ステルン病院で問い正している。

その病院は人々への奉仕を理念としたカトリック病院であり、病院自体が経済圧力の犠牲者であることから、病院代表は積極的に説明してくれる。

その説明によれば、現在の包括報酬制度では関節骨折の手術の6日間の入院治療で3200ユーロに対して、病院が費用のかかる緩和病棟の6日間の入院治療では2300ユーロしか支払がなく、病院の運営自体が危うくなっているという。

その病院の緩和病棟医局長のロウエン医師は、「瀕死者が静かに横たわり、全く和らいでいることは素晴らしいことです。本質的にはそれが医師として奉する本来のやり方です。人間は苦しみにあり、この苦しみをできるだけ和らげるべきです」と慈愛に満ち溢れた表情で語っている。

しかし現在の包括報償制度に対し一転して、「私たちを明らかに駆り立て、憤慨させるものは包括化であり、人生の最後の道のりでの人間の商品化です」と怒りを露わにしている。

そして、人間の尊厳を守る最後の砦である緩和病棟が経済的採算が取れないという理由で、多くの病院で廃止を余儀なくされている愚かな現状を嘆き、訴えている。

もっともドイツの緩和ケアは日本から見れば、驚くほど進んでおり、国民の殆どが自宅(老人ホームを含め)での死を望んでいることから、終末期の患者は自宅での看取りが基本となっている。

しかし自宅での看護が難しくなると、ホスピス(注1)に移り最後の時を過ごすのであるが、さらに痛みが激化して瀕死の状態となると、病院の緩和病棟への入院で痛みの和らぐ医療処置をし、痛みが和らいだ患者は再び自宅やホスピスに戻り、痛みに苦しむことなく尊厳ある最後を迎えれる配慮がなされている。

そのような仕組が、ドイツでは既に十数年前からできあがっている。

地域の病院の緩和病棟がなくなっても、緩和ケアの専門医師と看護師からなる

専門チームが自宅やホスピスを訪問することで、基本的に「自宅での見取」が守られいると聞く。

しかし、近くに病院の緩和病棟がなくなれば、瀕死の状態に陥っても四六時中の看護ができないことから、穏やかな死を望めないことも確かである。

話をフイルムに戻せば、患者は十分治癒していない状態で早期退院が経済的利益追求で為されるにもかかわらず、ドイツの病院は半数が赤字で危機にあることが見えてくる。

それに対してドイツ病院組合(DKG)の代表は、包括支払いをする疾病金庫と補足する連邦金庫からくる病院の財源が本質的に足りないからだと強調する。

そのため病院は利益追求に邁進せざるを得ず、その圧力が医師に回されているのである。

それ故ドイツは医師不足にもかかわらず、毎年凡そ2600人の医師が外国へ逃げるように出て行くのであり、取材チームはスウェーデンに移住した元病院医長アンドレアス・ヴェスコット医師を取材している。

そこでは、病院側の利益追求のため手術を前年の3%増やす補足契約を強いられ、それを非人道的で倫理的に許されないと思いつつ、為さざるを得なかった苦しい実状が語られる。

そのような苦しい思いの吐露にもかかわらず、ZDFレポーターは容赦なく、「しかしあなたは、契約に同意署名しましたね。何故ですか?」と厳しく問い正しており、まさに日本にないドイツだと感じた。

それに対してヴェスコット医師が、「全く交渉余地がないなかで、やりませんとは殆ど言えないでしょう。何故なら私のように出ていかねばならないからです」と真摯に答えるのも、まさにドイツである。

 

(注1)ドイツのホスピスは、日本のように高価で医師のいる病院ではなく、医師抜きの看護師や介護士中心に運営され、周辺に暮らす会社員から裁判官に至る幅広い層の休日を利用した市民のボランティアから成り立っており、保険で賄われていることから、終末期にある者が望めば誰でも利用可能である。

ボランティアの主な役割は、身寄りが近くにいない亡くなる人たちの聞き手となって、看取りに奉仕しすることであり、既にブログに詳しく述べているので参照して欲しい。

https://msehi.hatenadiary.org/entry/20141023/1414054895

 

(463)理想を追求するドイツの医療(1)何故、理想を追求するドイツの医療が燃え尽きるのか

ラウターバッハ保健大臣の医療革命

 

 ドイツの医療はコロナ禍で証明されたように世界に秀でており、国内で毎日20万人を超える感染者が出るなかでも、集中治療室にはゆとりがあり、限界に達していたイタリアやフランスだけでなく、ハンガリーポーランドなどの東欧から救急ヘリで重症者を運び、多くの命を救った。

世界に報道されたそのような素晴らしいドイツの医療は、鴎外がコッホ研究所に学んだように、19世紀から医療に理想を追求し、患者に奉仕する医療従事者の教育、そして技術を磨き上げて来たからだと言えるだろう。

しかしその裏側では(既にこのブログ212から217の「医療に理想を求めて」でも書いているが)、看護師などの医療従事者だけでなく、医師も夜間交代勤務だけでなく、30時間連続勤務さえ珍しくなく、ドイツの医療現場が燃え尽きていることを、ドイツのメディアは頻繁に描き訴えている。

私が屡々紹介するドイツ第二公共放送ZDFでも、最近のものでは10月25日フロンタール報道する「病院医師は限界」や12月19日WISOスぺシアルが描く「病院の大いなる危機」が、これらの窮状をリアルに訴えていた(新年に字幕を付けて徐々に載せて行く予定)。

このように理想を求めるドイツの医療が現場で燃え尽き、危機に陥っている原因は2004年から始まった(診断別)包括支払い制度Fallpauschalensystemであり、医療における利益追求が肥大し、最優先されてきたからである。

もっともこの制度が導入された時点では、薬が投与されればされるほど利益が出る薬害を生み出す仕組が是正され、診断された様々な傷病別の包括支払いで、その間の治療内容(投薬量)や期間に依ることなく、治療する側の創意工夫の努力と患者側の要望が報われる制度とも唱えられていた。

それは今から思えば、ハルツ労働法同様に競争原理最優先の新自由主義構造改革であり、利益追求によって得られた豊かさが滴り落ちるといった類の似非であった。

病院では利益追求が徐々に最優先され、利益が出る手術へと向かい、ドイツの手厚い患者奉仕の医療が、必ずしも必要ない早期手術で、早期退院を強いる利益奉仕の医療に転換されて行った。

すなわちベッド数が倍増し、それによって医師の労働も倍増し、経済優先が強いられ、良心ある医師たちはそのようなベルトコンベアの上で悲鳴を上げ、燃え尽きようとしていると語られている。

そのような状況下で、上に載せた12月6日のZDFheuteが伝えるように、ラウターバッハ保健大臣は医療革命を唱え、現在の医療構造を抜本的の変えることを約束した。

しかしこの十数年で自治体や都市の公営の病院、さらには経営基盤の弱い慈善団体などの多くの病院が投機目的で買収され、株式会社として既に深く根ずくなかでは、公共に取戻すことは恐ろしく難しことも確かである。

しかしラウターバッハは本気であり、25日にはそのような病院への投機をできなくすることを明言し、2023年の第一四半期には法案化を約束している。

それはたとえ法案化に成功しても、利益優先の資本主義社会で一旦生じた民営化の流れを変えることは不可能に近いことであり、それ故にラウターバッハは医療改革と呼ばずに、医療革命と敢えて宣言するのだろう。

そのような医療革命は、私にとっても関心が深く、新しい年の始まりから追跡して、詳しく述べて行きたい。

何故なら、現在の経済優先の医療を患者優先の医療へ変えて行くことは、現在の資本主義の経済成長優先の世界を、人の幸せ優先の世界に変えて行くことでもあるからだ。

事実ドイツでは利益追求最優先の新自由主義の雪解けが各方面で起きており、悪魔のハルツ第四法は既に「市民のお金」に変わり、新年から実施される。

 

尚下には、具体的にドイツの医療の問題点が理解できるように、8年前ZDFがドイツの医療危機を世に問うた『蚊帳の外の患者』を字幕を付けて載せて置きます(当時はフィルムが入手できず、セリフと解説だけで書いています)。

 

 

 

なぜドイツ医師の半数が自殺を考えるのか

(『蚊帳の外の患者3-1)』

 

 フイルムの前半ではゲッチンゲン大学医学部の卒業式が描かれ、医師として旅立つ卒業生たちは全員で、ピポクラテスの誓い「私の生涯を人の奉仕に捧げます。・・・私の患者の健康が、私の治療の最上の規律となるようにします」と一緒に誓っているが、日本ではあり得ないことである。

しかも卒業生のインタビューでは、「誓約は、人がいかに務めるべきかの確かな原理です。私は絶えずそのことを思い出したいと思います」、「人のために献身的に身を捧げる職業であり、そのための医師になります」と恥じらいもなく、真摯に語っているのである。

それは、競争教育で育った日本人には考えられないことである。 

ドイツの医師たちは、戦後60年代からの「競争よりも連帯を優先する」教育の民主化の流れで育ち、しかも幼少から自立と批判力の育成が求められきたからこそ、そのように胸を張って理想が語れるのである。

しかしこうして旅立った医師たちが、医師のアンケート調査によれば、ドイツ医師の3分の1が“燃え尽き症候群”にかかっており、凡そ半数が自殺を考えたことがあると答えている。

フイルムは、何故そのような驚愕する数を生み出しいるのかを追求することで、ドイツの現在の医療が患者より利益追求が優先される実態を浮き彫りにしている。

最初に訪ねた集中治療室の救急医であるパウル医師は、病院の一般病棟では医師は利益を求める経済圧力に抗することができず、自らも必要のない後悔の残る手術をしたことを語っている。

パウル医師が医長を辞して救急医になった理由は、このフィルムでは語られていないが、昨年ZDFが制作放映した『医師は限界・患者の幸せよりも利益優先の圧力 Ärzte am Limit - Kostendruck statt Patientenwohl』では、救急医のフリーデリケ女医が「私が救急医として働くとき、それは医者としての私にとって大きな自由です。救急医として、私は車の中で持っているすべてのものを、私が適切だと思うように、機器、薬の面で使うことができます。また、患者にとって適切だと思うだけ時間をかけることができます」と語っており、集中治療室では患者の命が優先されるからである(コロナ禍で集中治療室が秀でて機能したのは、唯一経済圧力下にないからだろう)。

そしてパウル医師は、過去にそのような手術をしたことを遺憾に思うと同時に、医長として若い医師に強いたことを深く反省している。

そしてそのような驚くべき話を様々な病院の医師取材で聞き、経済圧力が増し、ベルトコンベアのように処するなかで、燃え尽きている実態が見えて来たと語っている。

何故ならベッド数が倍増することで、医師を含め全ての医療従事者の労働時間が倍増され、1週間で60時間から80時間働いているからだと語られている。

それ故取材班は、燃え尽きた医師が入院治療している黒い森の小都市ホルンベルクにあるオバーベルク病院を取材している。

そこでは、毎年数百人の“燃え尽き症候群”の医師たちが治療を受けていた。

取材では、病める女医は「患者に出来うる限り公正で、私個人の要求に公正で、上司の要請に公正であろうとする強い圧力がありました。ベルトコンベヤー同様で、患者一人あたり数分の診療は最後に限界に達しました。何故なら、ハムスターの糸車から脱出する逃道が見つからないからです」と語っていた。

また生と死の過酷な心臓手術の連続するなかで、その重圧に耐えかね絶えず自殺を考え、薬に浸ってしまった男性医師は、それによって患者を危険に晒していたことを真摯に悔いていた。

そして治療にあたっている院長のゲエツ・ムンドル教授は、ドイツの医師の3分の1が“燃え尽き症候群”にかり、半数が自殺を考えたことがあることに対し、そうした医師たちは「患者に奉仕したい」という非常に高い理想を持っているからだと語っていた。

すなわち裏返して言えば、ドイツの医師たちは「患者に奉仕する」ピポクラテスの高い理想が息づいているからこそ、燃え尽きていると言えるだろう。

 

今年も早いもので、明日で一年が終わろうとしている。75歳の私も、新しい年からは一歩一歩平均年齢の80歳へと近づいて行く。いろいろと老いを感じる日々ではあるが、今できることを少しづつする境地である。

新しい年も医療の理想から始め、ドイツの医療の民主化、経済の民主化について私自身学ぼうと思っている。なぜなら、それしか世界の未来はない、日本の未来はないと切に思うからでもある。

 

(462)何故「帝国市民のクーデター計画」が起きるのか

画策されていた帝国市民のクーデター計画

 

 上の12月7日のZDFheuteが伝えた「帝国市民のクーデター計画」は、ドイツだけでなく世界を震撼させた。

7日6時、重装備の警察官3000人が、ドイツ、オーストリア、イタリアの150カ所で右翼過激派ライヒスビュルガー(帝国市民)に所属する関係者の自宅や事務所を一斉捜索し、25人が逮捕された。

逮捕者には元警官や軍人だけでなく、著名な元刑事検察官や元AfD連邦議員で現役の裁判官も含まれており、連邦検事総長ペーター・フランクが「私たちが知る限り、この帝国市民協会は、ドイツの自由民主主義的な既存の国家秩序を置き換え、力と軍事的手段を用いて、基本秩序を排除する目標を設定していた」と述べるように、荒唐無稽なクーデター計画ではなかった。

すなわち連邦議会議事堂突入で、現在のシュルツ政権を倒し、新しい軍事国家を誕生させることを、新しい大臣も決めて具体的に画策されていた。

それゆえシュルツ首相は逮捕直後、「彼らの計画は、私たちの民主主義に対する最大の脅威であり、法の支配、自由、平等、少数派の擁護を求める民主主義のすべてを否定するものである」と声明を出している。

しかし何故、ドイツのように民主主義が絶えず進化して自由、平等を追求している国で、このような恐るべきクーデター計画が起きるのだろうか。

それは一つには、自由、平等を追求するゆえに、言論の自由、デモの自由が守られているからとも言えるだろう。

例えばコロナ感染で始まったワクチン接種やマスク着用義務、外出接触制限、移動制限に対して、市民の自由が奪われという訴えで、これまでにドイツでは何百のデモが行われて来た。

その大部分は常識的規制に反発するクヴェア・デンカー(水平思考の人々という団体であり、根本は帝国市民と同一の極右過激派組織)が一般市民を巻き込んで為されている。

2020年8月29日のコロナ規制反対デモではベルリン市民約4万人が参加したが、連邦議会議事堂に集結した500人ほどの帝国旗を掲げるクヴェア・デンカーが突然防護柵を乗り越え、侵入をはかった。

警察官の必死の防御によって侵入は未遂に終わったが、この侵入未遂が2021年1月の極右過激派トランプ支持者たちの国会議事堂突入で手本とされた言われている。

だからと行って、言論の自由、それを支えるデモの自由を規制することは問題であり、規制を厳しくすれば右翼過激派の思う坪であり、自由の制限を盾に益々勢力を拡げるだろう。

ドイツで極右勢力が勢いを増したのは、シリア難民が激増し、2015年のシリア難民の受入れが100万人を超えた時からである。

もっともそれ以降は徐々に平静さを取戻し、昨年の連邦議会選挙では極右政党と指摘されるAfDも下降している。

それはドイツにおいて、自由と平等だけでなく、気候正義、社会正義が絶えず追求されてきたからでもある。

 

なぜドイツで帝国市民のクーデター計画が起きたのか

 

しかし予想もしなかったロシアの侵略が始まり、エネルギー危機によって気候正義が足をすくわれ、多くの市民に不安感が拡がり、極右勢力に絶好のチャンス与え、帝国市民のクーデター計画を生み出したと言っても過言ではない。

しかしドイツでは、2016年から帝国市民協会をリークしていた警察当局同様に、ドイツのメディアは、そのような極右勢力の革命幻想を見抜き、絶えず警鐘を鳴らしてして来たことも確かである(注1)。

下に日本語字幕を付けて載せたドイツ第一公共放送ARD制作の『気候崩壊、エネルギー危機、右翼の物語』(8月21日夜放送)では、なぜ革命幻想を抱く右翼が蜂起を夢見るかを明瞭に語っている。

この番組では、極右研究の第一人者でもあるマグデブルグ・シュテンダール応用科学大学の社会学教授マチアス・クエントを登場させ、なぜ今右翼の物語が拡がって行くのか核心に迫っている。

クエント教授は『気候人種差別』を世に出し、特に最近10年気候保護を妨げる活動が活発化し、その活動の中心が極右であると看破している。

また彼らは、気候変動の激化で世界に拡がる南の貧困地域での大きな苦しみに対して何ら責任を感じておらず、気候保護を妨げるだけでなく、経済的自由と国境を守らなくてならないという考えであり、分断をはかる人種差別のナショナリズムに他ならないと指摘している。

そして極右の物語は、人々の日常生活で自らの存在に意味を与える物語だと述べている。

まさにその物語はナチスの世界観(陰謀論)であり、ハンナ・アーレントによれば、繋がりの希薄となった市民が、未来に不安感が増していくなかで大衆としてアトム化され、わかりやすい世界観「諸悪の根源はユダヤ人の世界経済支配にあり、排斥しなければならない」に飛び付いたのである。

そして現在の帝国市民のわかりやすい世界観は、「諸悪の根源は、法の支配、自由、平等、少数派の擁護を求める民主主義であり、排斥しなくてはならない」となるのである。

そしてクエント教授は、そうした右翼の物語が保守的考えと結びつき、さらに常態化し、過激化し、社会の分断を起こす危険性を警告している。

(事実ナチスは、ドイツ帝国の富国強兵、殖産興業を強化し、ヒットラーは『我が闘争』でドイツ帝国のそのような官僚支配を絶賛している)

またこのフィルムに登場している俊敏なシュピーゲル誌の女性記者スザンヌ・ゲッテは、何故気候保護と気候適応が現在不全になっているかを指摘し、エネルギー転換が為されないなら、「人々は蜂起し、右翼は上昇気流に乗るだろう」と述べている。

そしてラストは、ドイツ第一公共放送ARDの主張でもある「気候危機、エネルギー危機の物陰では、右翼が“暑い秋”を夢見ている。それに対して、社会正義と気候正義の政治が手を差し伸べなくてはならないだろう」と締めくくている。

明らかにこのフィルムを見れば、なぜ帝国市民がクーデター計画で“暑い秋”を夢見るのか理解できるだろう。

そして最後に私見を述べれば、この春書いた『2044年大転換・ドイツの絶えず進化する民主主義に学ぶ文明救済論』でも指摘したように、気候正義、社会正義を推し進めるためには、ドイツの民主主義を経済にまで進化させていかなくてはならないだろう。

 

(注1)例えばドイツ第二公共放送ZDFが2020年7月24日に放送した『コロナ神話(陰謀論)の力・民主主義の危機』では(このブログ408から3回に渡って掲載)、コロナ禍で極右の陰謀論がドイツ中で一時的に勢いを増し、ドイツの民主主義を脅かすなかで、公共放送として陰謀論の目的と実態を様々な角度から迫真に迫って追求している。

 

(461)危機の時代を賢く生きる(最終回)完全な自給自足を求めて・エネルギー危機での便乗値上げ禁止法

「完全な自給自足」が志向される理由

 

 上に載せた『完全な自給自足』フィルムは、今年ZDFテラエクスプレス『Power im Dorf』で放映された一部であり、まさに危機の時代を賢く生きる典型であり、ヤコブは現在の危機の時代を逆手にとって生きがいとしていると言えるだろう。

危機の時代と言われる由縁は、 1970年代に始まった「成長の限界」、90年のリオの気候保護宣言、さらには97年の京都議定書温室効果ガス削減の約束にもかかわらず、世界の国々はあたかも削減約束を免罪符にするかのように排出量を増大させており、2020年には1990年比で160%を超えているからである。

しかも今年2022年は、危機の時代をロシアのウクライナ戦争によるエネルギー危機から、これまでの最大排出量を超える年になると言われている。

そのような状況を眺めるにつれても、「パリ協定」の2050年までに二酸化炭素排出量をゼロとし、氷床崩壊を起こさない地球温暖化ティッピングポイント(臨界点)1.5度上昇に留めることは不可能であると感ぜずにはおられない。

現在のように世界の国々が国益を最優先するなかでは、2030年には確実に1.5度上昇を超え、2050年には2度上昇でジェームス・ハンセン博士が指摘した氷床崩壊が頻発し、驚く速さの十数メートル海面上昇で、大部分の大都市が海に沈むことさえ想定されるシナリオである。

これまでは最悪のシナリオさえ数メートルの上昇であり、しかも遠い未来の2100年の未来の、現在地球に生きる人々が直接的には関与しない話であった。

しかし「パリ協定」の実行年を2年過ぎても、寧ろ世界の成長希求は強まっており、2050年に排出量ゼロどころか90年比で200%を超えることも決してあり得ない話ではなくなって来ているからである。

それゆえ先月のドイツの世論調査で国民の殆どが、国際気候保護会議COP27に期待していないのであった。

だからと言って無関心ではなく、地域で市民のエネルギー転換、エコロジー転換への流れは、ドイツでは今年のエネルギー危機を通して加速している。

それは国民の間に、世界の臨界点を超える気候変動激化は避けられないという認識から、自らの生きる場所で気候変動激化に対処し、排出量ゼロのエネルギー転換、エコロジー転換を実現させていかなくてはならないというドイツ国民の意思のように思える。

それゆえヤコブの実践する、二酸化炭素排出量ゼロだけでなく、汚水も外への排出量ゼロで、エネルギーだけでなく、雨水による水や敷地内で食料まで自給自足する「独自の家」への関心が拡がり、高まっていると言えるだろう。

 

エネルギー危機での便乗値上げ禁止法

 

 ドイツは寒い冬の足音が聞こえて来るなかで、信号機政府は市民のガス価格、電気価格、ガソリン価格の高騰が為される前に、政府の負債禁止法の例外を連邦議会で承認して、最大2000億ユーロ(約30兆円)の財源を用意し、市民が暖房費で困らない暖房費抑止措置を決めた。

同時に企業の便乗値上げがないように、値上の場合値上企業が立証しなくてはならない便乗値上げ禁止法決め、立証出来ない場合は利益没収という厳しい措置に出たのである。

そうした厳しい措置が必要な理由は、政府が費用を一部負担する場合多くの企業がそれを利用して、便乗値上げが横行して来たからである。

もっとも利益追求が最優先される企業の論理からすれば、政府負担は利益追求の絶好のチャンスであり、危機を踏台にしない善良な企業では現在の新自由主義の枠組では生き残れないからである。

具体的な暖房費抑止措置は、市民各々の前年消費量の80%に支援措置が為され、ガス価格はキロワット時あたり12セントの上限適用されることになる。

また電気代もキロワット時あたり40セントの上限価格が適用され、市民が80%の節電に努める限り値上に苦しむことはなくなった。

もっとも食料品などの値上がりは激しく、平均約10%のインフレで大変なことには限りないが、市民利益を最優先する政府は発足時に単位時間あたりの最低賃金を12ユーロ(1700円)に引き揚げ、コロナ救済支援、住宅費支援、定額交通費パスなどと、市民の暮らし安定に奔走していることは確かであり、世論調査でもそれに対する信頼感が感じられる。

そのような手厚いドイツの人への支援提供に対して、箱物や公共工事、さらには防衛費増大には大盤振る舞いでも、困っている人にはお金を融資するだけで支援提供しないのが、日本のやり方と言えるだろう。

そのような市民利益を求めないやり方が内需さえ冷やし、今日本を益々衰退させていると言っても過言ではないだろう。